■その他の論点と当ホームページについて
淫行条例問題を考える上でも、その前提となる論点や考え方について検討する必要がある。
ここでは、そうしたいくつかの論点を取りあげる。
■自由意志や本人(当事者)の意思、合意、そして未成年者の人権に関して
「私」という考える主体における再帰性は、あらゆる事物の出発点である。「私」はあらゆる個人に部分的には敷衍されうるものの、完全には敷衍されきらない。そこに個人の個別性という論点が現れる。その再帰性は、自身の思考や存在を対象化し、思考の対象とすることが可能であることからして、一定は自律的で自由な再帰性であり、自由の核心部分である。こうした自由を、自己内的自由と呼びたい。
そして、そのような自由を持つ個人が集まる場所が、社会であり国家である。そこにおいて、全ての個人の自己内的自由を尊重する消極的自由は、立憲主義的憲法の基盤である。
さて、このようなコギト的な個人における自由な再帰性という内容に沿って考えれば、本人の思考力や意思決定能力、自由意志は少なくとも一定程度は是認される必要がある。そして、そこにおける不足については、対話や教育・発達の支援によって補うべきである。
仮に、本人が考える意思について、他者や社会、ましてや国家がそれを本人の意思とは認めず、他者や社会、ましてや国家が本人の「正しい」意思を決定することが濫用されれば、それは既に自由意志ではなく他者の意思であり、単なる他律である。
淫行条例が規制の範囲としている、性行為における自己決定や合意についても同様である。もちろん、たとえば威圧されて自由な意思決定が妨げられるようなケースは問題にされるべきである。しかし、例えば淫行条例のように機械的に意思決定や自由意志を無視してしまっては、自由は成立しない。また、
未成年者の場合についても、その基本については同様である。もちろん未成年者が自由や人権について、一定の制限を受けること自体はやむを得ず、刑法の同意年齢などの一定の制度には必要性がある。当ホームページは、「どんなに年齢が低くても性行為の同意ができる」といった考え方には当然、立脚しない。だが、未成年者も当然、人権の享有主体であり、それぞれの制限の必要性や内容について、代替する他の方法はないのかも含めて検討がされ、改良が図られる必要がある。児童の権利条約も、児童を保護の対象としてだけではなく、権利の主体として捉えているのである。そしてそうした意思決定の力を高めていくものは、刑罰ではなく、前述のように、まず教育や発達の支援である。
また、個人と個人は必ずしも完全に対等ではない以上(年齢、性、障害の有無、社会的状態、そして性格や個性、さらには体格や体質など)、法は自由と一定の判断能力を基礎としたうえで様々な配慮を行う必要があり、そこでは相手を選ぶことも含めて恋愛の自由を可能な限り保障するよう工夫することも含まれるべきである。すなわち、対等でないことをもって機械的に、恋愛の自由や性的自由を否定することは、許されない。
例えばいわゆる障害者と健常者には力の差がある。経済的に豊かな人とそうではない人の間の力の差はどうだろうか。また、アメリカ社会における黒人と白人の間にも同様に、社会的な力の差がある(日本においても人種・民族などによる差別の解消が必要だが、ここでは一例としてアメリカの例を挙げる)。さらには年齢が同じでも、相手と体格が大きく違うということでさえ、身体的にも心理的にも力の差になることもあろう。そうしたことを理由に、たとえば障害者と健常者の恋愛を禁止すべきだろうか? 「障害者の保護」や「非対称性」を理由として掲げれば、それが許されるのだろうか? あるいは、白人と黒人の間の恋愛を禁止することが、果たして是認されるだろうか? 答えは当然、否である。様々な配慮は当然に必要であり、強制が生じることは防ぐべきだが、恋愛の自由の重要性を欠かすことはできないことがわかる。
自由を守ると称して、自由を減退させていくという逆説は、許されざるものだと言うほかない。
■自由についての論点
自由という概念について、いくつかの見解と論点があげられる。それらについて、簡単に検討してみたい。
(1)個人そのものに立脚する自由観
第一には、前述のように、個人そのものに立脚し、その自由を最大限尊重すべきとする見解があげられる。当ホームページは、この考え方によっている。
(2)社会内的存在としての個人に立脚する自由観
第二には、「社会内的存在としての個人」に重点を置く見解をあげることができる。
すなわち、個人よりも前に社会的な価値や規範、文化があり、自由もそこから生まれた価値であるから、自由の限界もそこによるのだ、とするのである。
しかしこれは、個人そのものに立脚しておらず、自由を第一に尊重する考え方とはいえない。確かに、(社会的な)自由のバックグラウンドの一つとして、社会の存在があげられる。例えば、イギリスのマグナカルタなどは、そうした、社会の中での権利が体系化されて、近代的な人権に昇華していく過程である。また、文化や人々の営みのなかで作られてきたものや先人を尊重し、そこから学ぶことも重要なことであろう。しかしそれらは、自由の淵源の全てではない。そして、個人の根源性を否定するものでもなければ、自由を制限する理由でもない。
(3)自由なき平等を前提とする自由観
総論
第三には、「自由は一番目の価値ではなく、それより前に平等や公正さを重視すべきである」という見解をあげることができる。
もとより、平等や公正さは大切である。しかし、全ての人の自由を尊重することに立脚せずして、平等も公正さも成り立たない。また、平等も公正さも、個人の中の自由(積極的自由)があるからこそ、それを対象として考察することからして可能になっている。そしてそれらは、あくまで自由をベースとして考えられるべきものである。自由を尊重するからこそ意義ある平等が実現しうるのであり、その自由を尊重すること(消極的自由)が国家や社会の側に求められるのである。
アプリオリな自由を否定する自由観
さて、こうした自由観は、アプリオリな自由を否定し、何らかの価値観を身につけることを優先する観点を併せ持っていることが多い。すなわち、「人間は本来的に自由ではなく、平等さや公正さなどに立脚する何らかの価値観を身につけることで真の自由に達する」とする観点である。
この見解においては、個人は、自らが自由に選べないところで生まれ、育った存在であることが強調される。そして、個人が行う多くの選択は「選ばされている」に過ぎず、実際には他者や社会の強い影響のもとに形成されたものである、などという。言い換えれば、自己を本質的に形成するのは他者であるということになる。また、個人の選択はもちろん、個人という存在自体が「構造的に」決定されているとする。
こうした人間観に基づくことで、各個人が選ぶ、本人が選ぶ自由の価値は低く、場合によっては「本当の自由」ではないものとされる。また、自由を一定程度尊重するとしても、「本当に自由」になるためには、何らかの思想的プロセスを受け入れて身につけることや、自由への制限(法的なものも含む)も必要である、と展開する。
ここにおいては、個人の自由意志や決定能力は過小評価されており、自由そのものが尊重されているとはいえない。そしてこれに立脚すれば、自由は内発性ではなく、こうした価値観に基づき、そして何らかの分析をする「視点」による他律的な思考や決定へと変質していく。しかし、そこでいう自由の基盤は、「自由になるため」と称して受け入れた、他者の思考の体系である。
生の全体主義
さらにこの観点は、全ての個人に対して、何らかの価値観を身につけるだけではなく、特定の共通善への合一化を求める形へと展開していく。
アプリオリな自由に立脚しないがゆえに他者の視点によって自己は侵害されているとして、他者に対して視点を変えるよう強いることは、とりもなおさず、自己から他者への視点をも変えることを強いることとなる。すなわち、自己による、他者と世界への関わり方について、実際の権利侵害の有無にかかわらず、大幅に自由を規制する必要性が発生する。ここで「自由は自由に資さず」「自由は自由ではない」という逆説が成立する。そして、全体に共通する「善」、自由なき「平等」、自由なき「公正」からの逸脱を取り締まることが社会や国家の役割となる。これはもはや、一つの全体主義である。そしてこれは「生の全体主義」とでも言うべきあり方である。
ナチズムに代表されるような形式の全体主義は「死の全体主義」であり、一定のイデオロギーのもとに「生きるべき人間」を勝手に選別し、それ以外の生命を軽視するどころか殺戮を実行した。いうまでもなく、最悪の思想である。
「生の全体主義」はそれと本質的には同等であるものの、少しの違いを有する。すなわち表面的には人間や生きること自体を尊重するとして、平等を重視し、一定の自由も認める。しかしその核となる人間観においては、他律的な「正しい生き方」や他人が決めた「真の自由」への合一化の強要を、絶え間なく更新し続けるものである。そして、そこからの逸脱者に対して刑罰を含む矯正を求め、“自由の縮小再生産”とでもいうべき行為を続けていくものである。
批判的検証~考える主体としての自己
さて、こうした考え方について、批判的に検証してみる。
そもそも個人は考える主体であって、少なくともその能力を持っていることは、前段の「自由意志や本人(当事者)の意思、合意、そして未成年者の人権に関して」で述べたとおりである。「自らが考える」という次元は、重要な意味をもつ。
確かに、ある個人にとって、その存在の端緒にせよ、影響を受ける事物にせよ、生育したり生活したりする環境にせよ、この見解で述べられるとおり、自ら選んだものばかりではない。そして、自己の形成においても選択においても、他者や社会による影響は決して小さくない。またそれが偏見から完全に自由なものとも限らない。
しかし、そうした自己のあり方に対して、考える「私自身」がアプローチし対象化し、想像力を働かせ、自ら創造していくところに、それ以上遡れない「私自身」の根源性が存在する(前述の再帰性がこれである)。自らが、自己そして世界を対象として考えている以上、「考えられる私」「決定される私」(me)に先立つ「考える私」「決定する私」(I)が存在する必要がある。そのことはこうしたアプリオリな自由を否定する論者自身においても本来は、同様である。
そして、自己が、自己自身の存在や自由について考えて分析し、それを自己のものとしていくことが、自我の発達や成長である。自己がいかに他者の影響を受けようとも、自己の存在や思考なくして自己の形成や展開はありえず、他者や社会との関係やも存在しえない。当然、他者や社会との関係や影響、学びは重要である。だが、影響を受ける、学ぶ対象以前に、影響を受ける、主体たる自己自身が不可欠である。あるいは、より一般的にいえば、他者がどう言おうとも、個人の中にはそれとは異なる自らの思想や価値観が存在していたり、あるいは自らの好みが存在していたりすることがある。他者や社会だけでは、一個人の存在も展開も説明しきれない。ゆえに、人間存在の本質としての自由、アプリオリな自己内的自由を肯定せずして、あらゆる自由は肯定しえない。
なお、社会的には、このような個人の思考能力や選択の力を高めることは、教育や発達の支援などによって達成されるべきものである。もっとも本質的には、個人が行う哲学の範囲に属する問題である。国家や社会にとって、この自己内的自由とつながる消極的自由を尊重することこそ、第一に必要とされる。
個人の主体性を高らかに謳いあげた近代思想が、近代的な自由と立憲主義を生んだ。もちろん、そうした主体性や自由を疑う哲学的営みは必要不可欠なことである。自由は信じるものではなく、考えるものだからである。自由を検証する自由を否定してしまうことは、自由の消滅に繋がりかねない。
だが、個人の主体性や自由を疑ったあげく否定する見解は、自由そのものに立脚する立憲主義的憲法の原則とは正反対のものである。そうした思想が学界においてまた、社会的に力を持ち、憲法の解釈を変えれば自由主義的・立憲主義的憲法はその根拠を失うし、公権力へのアプローチを強めていけば、自由主義的な国家・社会は瓦解しかねない。そして、仮にそうした観点による憲法の改定がなされれば、自由主義的憲法・国家は消滅することとなる。
事物の意味について
ところで、こうした個人という存在は、自らの理性や想像力によって他者や世界にアプローチし再構成して、自己を発展させ、他者との関係を築き、社会の形成に参画していくこうした個人がアプローチするところの「事物の『意味』」、自己自身についての意味はもちろん、この世界に存在するあらゆる事物の意味は、個人自身の内面においても創造され、再構成される。すなわち、実存に立脚する意味である。
もちろん、事物の意味には、その事物に本質的に備わっていたり、人間どうしの関係を通じて社会的に造られ共有されたりするという側面もある。だが、個人にとって自己の内面、自己自身という次元こそ第一である。それなくしては、個人は世界にアプローチできない。ゆえに、自己自身にとっての意味、実存的な意味は、構造的な意味よりも優位に立つ。
自己矛盾の花
ここで、少し視点を変えてみる。仮に、こうしたアプリオリな自由を否定する論者が言うように、ある個人の自由な意思決定が「選ばされているもの」なら、その主張自体はいったいなぜ、「選ばされているもの」ではないのだろうか? まさか、「○○論を学んで、構造を分析したから」(!) とでも言うのだろうか (これでは主体を説明できない)。
なお、こうした論者の中には「この考え方自体さえも確かに選ばされているもの、構造的に決定されているもので、私にも自由は存在しない」という人もいるかもしれない。だがそれは自由意志、ひいては責任の放棄に他ならず、思想としての議論はありえても、法令の議論における根拠とすることは困難だろう。
いずれにしてもこんなことでは、そうした論は、もはや自己矛盾以外の何物でもなかろう。
最後に
自由についてどのように考え定義することも、自由を否定することさえも、当然にして自由である。しかし自由を、特に国家、法令や公権力が侵害することは、いうまでもなく許されない。すなわち、消極的自由を最大限に尊重することは、やはり欠かすことはできない。
■表現規制問題よせて
当ホームページのメインテーマではないが、当ホームページは言論・表現の自由を尊重し、その価値はもとより、あらゆる人の自由が、思想・信条の自由や表現の自由から趣味嗜好の範囲までを含めて尊重され、様々な文化が共存することが重要であるという立場に立つ。そのため、政治的言論への規制や統制はもとより、児童買春・児童ポルノ禁止法の改定などによる、文章、絵や漫画、アニメ、CG、ゲームなどの創作物への規制論には反対の立場を表明する。
なお、差別的・排外主義的主張やヘイトスピーチについて当ホームページは反対の立場に立つが、直接の法規制については危険性が高いため、賛同しない。
■その他
私taocjp・当ホームページの管理人は、(当然ながら)法律の専門家ではない一般人です。ご自身の問題などについては、必要に応じて専門家にご相談ください。
私がこの問題について考えることになったきっかけは、私自身が「青少年」の年齢の頃、淫行条例やその制定の是非についての報道を見聞きして条例に疑問を感じ、その後、淫行条例改正運動(グレーリボンキャンペーン)を知ったことでした。
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